穢れ(ケガレ)意識
日本でかつて、エタ・ヒニンと呼ばれた人達は、
かつて皮革製品の職業や動物の死体処理などに携わっていたようです。
部落問題
差別をする側の人にとっては、ケガレた職業ということになります。
触れられない問題という意識が長らくあったので、
子どもの頃から気にはなっていました。
歴史で習う士農工商の占有率でその他3%というものがあり、
この「その他3%」というものが気になってました。
今でも、よく分かってはいませんが。
かつて海外から来日した学者や著名人が、
同一民族で肌の色が同じなのに生じる差別に戸惑ったそうです。
農民に自分たちより下位のものがいることを諭すための
政策も絡んでいたとかいないとか。
貴族が鎧を着けたがらないのも、
ケガレた動物の皮でできたものだからでしょうか。
動物・皮・血抜き・武器・殺戮・・・いろんなものを想起させます。
過去何回か中東戦争をやったイスラエルは、
軍人か民間人かは忘れましたが、PLO側に数人殺されただけで、
レバノンに大爆撃したことがあるそうです。
中東の問題を例に出したので、
余計にヒステリックに思う日本人は多いと思います。
でも、殺された家族の気持ちを少しは代弁していることにはなります。
国家として、
「それぐらい国民を大事にしているぞ、
誰にも手を下させないぞ」という思いは、
家族でない人でも感じているはずです。
当事者になれば、復讐してくれた国家に
ありがたく思うかもしれません。
対岸の火事として見ている冷静な時は、
平和や人権を振りかざし、自衛隊そのものに偏見を持つ。
そんな日本人は多い、いや多かった。
多かったというというのは、昔の話で、
最近は、海外で国連部隊として活躍する自衛隊やスタッフ関係者が、
現地の方から感謝される映像を見て、
日本という国に誇りにさえ思う若者も増えてきたということです。
生理的な抵抗あっても、世界の役割の中で、
自衛隊による人的支援を紛争地帯で行うようになり、
その重要性に気づいてきたような気がします。
武士というものは、日常的に死穢に接している者だから嫌い、
という思いが根底にあるのでしょうか。
武器も服装も職業も存在そのものが穢れている
と感じるようです。
現代で言えば、自衛隊に対するものになります。
先の大戦があったからとかまったく関係なく、
日本人は昔から戦(いくさ)が嫌いなようです。
要らんこと、余計なことをする存在とか、
誇りを失った人など思っています。
日本以外では、自分の国を守る職業は、
誇りを持てる国が多いと聞いています。
「存在は否定するがいざという時は働いてもらわな困る」
と言ったどこかの知事がかつていました。
自分は何もしないのに、都合のいいようなことを言う。
存在は否定するが、
自分がケガレたくないことは、やってもらいたい。
まるで平安貴族です。
阪神大震災の時でも、ポピュリズムでも何でもいいから、
実際に神戸で走りまわって手をよごした芸人や政治家の方が、
よほどすばらしいと思います。
首都いわゆる都をどんどん移していく理由に、
先代の死穢(シエ)でケガレた都に住みたくない
という思いがあったとも言われています。
奈良や飛鳥の貴族でなくても、
現代の日本人でも理解できる例だと思います。
遷都というのは、経済的には大変な負担になる。
にもかかわらずらず(ケガレが)優先されるのです。
10年ほどで都を捨てたケースもあります。
遷都を効率さで考えると、
なんとも無駄使いで説明がつきません。
遷都というものも、割り箸の例の通り、
昔から日本は使い捨ての文化があるようです。
かつての都で疫病や祟りなどイヤなことがあった
というケースも捨てたい気持ち、
そこから離れてリセットしたい気持ちに駆り立てるのだと思います。
例えリセットしても解決しないと分かっていても、
変えない(代えない、替えない)でいられないのでしょう。
日本人は、水に流して綺麗サッパリする、
水に流して過ちを忘れるという習性があります。
相手が悪くても、自ら水に流してやって相手を許す寛容さを、
相手にも求めてしまうというのは日本だけのようです。
これを国家間のレベルでも通用すると思っている、
あるいは、理解してもらって水に流すことを期待している感もあります。
靖国神社にも、もう(時間が経って)いいだろうということ
でいつのまにかA級戦犯も一緒に合祀したようです。
良いことも悪いことも水に流すのです。
自分たちにとってケガレた歴史事実も、
忘れること、許してもらうことによって水に流そうとします。
この点は文化が違うので、考え方を改める必要があります。
歴史の教訓が生かされないという理由の一つかも知れません。
日本人は、親兄弟といえども、
自分以外の箸を使うことに抵抗を覚えます。
どんなに消毒してもダメで、
そこに非科学的なケガレを無意識に感じているようです。
これが、帰国子女やガイジンなら、
しっかり洗ってくれて喜ぶのでしょう。
日本人でもナイフやフォークならOKですね。
自宅で使う箸の使いまわしと、ナイフやフォークの使いまわし。
どちらが抵抗あって、どちらが抵抗ないでしょうか。
そういう意味で、
割り箸やカップヌードルは最高のグッズです。
割り箸というのは、
ケガレを理由とする使い捨て文化の一つだと思います。
お持ち帰り用のお弁当の割り箸なら、ただの便利なグッズですが、
自宅以外の場所での、割り箸という感覚はケガレです。
「そうじゃないだろう」という方がいるかもしれません。
では、居酒屋で、割り箸じゃなくて、
いかにも自宅で出てきそうな使いまわしの箸だったら。。。
どう感じるでしょう。
人が使ったものという意識。
ナイフやフォークには人が使ったものとは感じません。
自宅でのお茶碗も同じです。
毎回、どれでもいいわけはありません。
ケガレという意識を持たなくても、
あるいは、自分は大丈夫でも、
少なくとも、この話が理解できる方はいると思います。
お茶碗、お箸にはあって、
ナイフやフォークにはないもの。
21世紀の今でも確実にケガレは存在します。



